映画「レ・ミゼラブル」感想

福祉は大切だと思った。
母子家庭の不幸、小さな子供が虐待される不幸、非衛生的な環境で次々に倒れていく人々。貧富の差の生み出す社会構造、何よりも飢え、仕事もなく、仕事はあっても搾取されるのみ。人々は荒み、誇りを失い、嘘と悪事が日常となっていく悲劇。
そして人間の幸せな営みの為の政治こそが必要だと。
あの小説の書かれた時期からこれだけの時が過ぎても、地球の上には多くの不幸があり、神は神同士で争う事に夢中で、人間の事など見向きもしない。それでも信仰と狂信はどちらも正義を主張しながら、独裁を維持する為に知識人は殺されていく。従順な奴隷とならない無知な人々も殺されていく。死体は朽ちていくが、憎悪と復讐と欲望は何度でもよみがえる。
先日、とある元議員さんと話した。現在の生保の急激な増加は当時の与党が在日なら無条件で通す事を現場に強制していた為、こっそりとガイジン参政権を通そうとする勢力と与党の中でも日本の未来を心配する人はいて、何とか阻止しようと動いていた事など、二枚舌や三枚舌がないと生き残れぬ世界の人の言う事は話半分だとしても、キナ臭い話が多かった。
正義とは何か、悪とは何か。
原作もミュージカルも名作である以上、内容と名曲で感動は約束されている。それを映画に置き換えた時、映画として名作になったのかどうかが問われる。
私は映画も舞台も好きだ。
声楽をかじったのでミュージカルもオペラも好きだ。
ライブビューイングの時に感じる痛痒感をこの映画でも感じた。舞台は全体を視野に入れる事を念頭に構成される。にもかかわらず、ライブビューイングではアップを多用する傾向がある。舞台の本当の見せ場を見せてはくれない。全体を見せずにどうしても人物を追ってしまうのだ。執拗に続くアップ。それでは何も分からない、真の舞台の魅力は伝わって来ない。この監督はこのタイプの映画では実力を発揮出来ない人なのではないだろうか。
舞台を見る心構えと映画を観る心構えは違う。
その違いに無頓着な演出が各所に見られた。たとえば「静かに」と言いながら、いきなり朗々と歌い上げられては「見つかっちゃうよw」と余計な気遣いと共に感動は吹き飛んでしまうのだ。ミュージカル通りの演出であっても、ただそれをなぞるのではなく”映画”としての嘘の付き方の工夫が必要ではないだろうか。
アニメで客寄せパンダにお笑いやアイドルを声優に使って、興行成績は上がっても、肝心のクオリティは急降下してしまうという、お馴染みの悪夢がこの映画にも見え隠れする。中心に据えられた大物俳優達は決して悪い役者ではない。だが彼等のいない場面の方が、生き生きとして面白いのである。
特にエポニーヌが良かった。
彼女の親はコゼットを食い物にしたが、一緒に育った彼女にはコゼットへの悪意はなく、あの両親に育てられたにしては歪む事なき心を残していたのだ。愛しい人の役に立ちたい、愛しい人を守りたいと切に願い、死んでいった彼女のせつなさは、この映画の中で数少ない純粋で上質な感動を与えてくれる。
革命か恋かの二択に悩む甘い金持ちボンボン。結局はお金持ちの実家に何事もなかったかのように逆戻り。死んでいった仲間を忘れたかのように、コゼットと結婚して大はしゃぎ。それが学生革命の限界と重なってみえる。学ぶだけの余裕がある人間達に、本当の地獄は解らない。市民が学生達の助けを求める声に門戸を硬く閉ざしたのも、教養はなくとも彼等の理想のみを追う甘さを本能的に察していたからだろう。
それでも、誰かが叫んだから、今がある。
ジャン・バルジャンが力持ちなのは
妙に説得力があったよ、ヒュー・ジャックマン☆
Les Miserables



fc2が不調の際はお手数ですがTB用ミラーブログをご利用下さい