「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」展

「ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美」展

ボッティチェリの聖母の微笑に出会う前に、私達はフィオリーノ金貨を拝まねばならない。

確かにこの金貨なくしては、ボッティチェリの聖母も御子もこの世界に顕現する事はなかっただろう。あまりにも単純な事実、だがあからさまに語るのはためらわれる事実。カネのために描かれた絵など下品ではないか。金があっても感性も品性もないのなら猫に小判、単なる宝の持ち腐れではないか。絵の価値よりも値段、芸術ではなく投資目的のモノとしか見ない現代のそんな金持ち連中を思い浮かべ、うんざりしそうになる。

だが、後にルネッサンスと呼ばれる時代の金持ちは単なる金持ちではなかった。十分な教養と鑑識眼があった。優れた芸術家に惜しみなく援助を与える意味を知っていた。芸術家達は心得ていた。自分達の作品がそれにふさわしい場所が与えられる事を。芸術家であると同時に職人でもあった彼らは、注文に応えるのも実力の内と誇りに思っていたのかも知れない。

フィオリーノ金貨とメディチ家の興亡。

ボッティチェリのパトロンだった彼らの血生臭い歴史をざっと知らされる展示を過ぎる。絵を見る。ボッティチェリばかりではない。当時の世界を説明するために他の画家の絵も飾られている。富に華やぐフェレンツェ、ロレンツォ・デ・メディチが支えた沈みかけた太陽、迫る黄昏。悲惨な結末、追放されるかつての名家。

その先にボッティチェリの聖母がいる。

世間にどんな風が吹き荒れようと、聖母の微笑が穢れる事はない。聖母子を囲む天使たちが羽根をたたむ事はない。伏し目がちに我が子を見下ろし、恍惚の笑みを浮かべる聖母。その青い衣の上の御子は天を見ている。天上の美の中にいる彼らは、どんな悲劇も悪徳も悪意も無縁なのだ。

人生の初舞台は聖母マリアだった。

私は役者ではないので、舞台に立った経験など数回しかない。あれは幼稚園の聖誕祭の劇。私は青い布をまとい、椅子に座って天使を待った。先生の指示通りに。背中に羽根をつけた同級生の顔をした天使がやって来て、私に受胎告知をした。私は先生の教えてくれた通りのセリフをいう。「神様のいう通りになりますように」天使は去っていく。私は舞台に取り残される。

あの時から、聖母は私の一部になった。

私が聖母の絵を見る時に感じる”何か”がその証しなのだ。敬謙なのか畏怖なのか歓喜なのか・・それらの混合物なのか。神ではない私には知る由もない。だがその山奥の天然水の抱いた泡が泡立つように胸の底で微かにはじける感覚は、今もある。今、聖母を見ている今。手をあわせたくなり、こうべをたれてはいても、心は遥かへ飛ぼうとする。聖母子と洗礼者聖ヨハネの前で、私は時を止める。

これほど沢山のボッティチェリを一気に見られる幸せ。

ダ・ビンチのような圧倒的な峻厳ではなく、包み込むような慈愛がそこにある。テンペラの柔らかい色彩の中に気高い純潔が具現化している。心優しき聖母の瞳はこの世でもっとも尊いものを見ている。 Ave Maria, gratia plena, 贅を凝らした額縁に書かれているのはラテン語の賛美の言葉。アヴェ、マリア、恵みに満ちた方・・・私は時を止める。聖母の笑みを受け入れるために。

やがて私は出口へと歩き出す。世俗の塵の中へと戻るために。遥かなるルネサンス、遥かなる栄華、遥かなる祈り・・そして胸の奥の泡立ちを御子の如くに抱きしめながら。


Bunkamuraザ・ミュージアム


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